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Clinging to the Right to Dream


All of us are burdened with some form of destiny and strive to accomplish something in our lives. Although we are pushed away from the ideals we entertain as autonomous individuals, the primeval landscapes and emotions within us overflow and ooze through the cracks in a covering of information. In the swirl of civilization, I create works using a variety of media to give visible form to the questions I pursue. 


By continuing to make installations and drawings, I have attempted to create images of the world by examining the connection between people and space. Exploring the images of the world that arise from narratives, which were transmitted by the human voice prior to the emergence of the written word, in the contemporary era led me to produce video works.


Since starting to work in the video medium in 2000, I have made 27 works. I began by documenting intentional movements I performed in installations. And since rereading the Japanese translation of Heidi (written by Johanna Spyri in 1880) at the age of 44, I began to include my age in the title of these works. In these site-specific pieces, I disguise myself as the elderly Heidi, still roaming the mountains in search of memories. These scenes suggest the innate human yearning and uncontrollable fear of nature. The primeval landscape, concealed within us all, emerges here. The narratives are never resolved. Connecting images and sounds in the same way that a few temporary bridges connect different places allows me to imbue the pieces with accidental and arbitrary qualities, and bring out a new element, allegory, from the images. By combining various eras and cultures, and extending into the present by virtue of the fact that a living person made them, it is my hope that the works will serve as devices that resound with viewers on the deepest human level. 


As my video works have continued year by year, it has become natural for us to transmit information through images and image recognition. After I began using a social-networking site, I posted an image of a picture I had made on the Net. I decided not to stick to a uniform material or method and made a rule that I would also publish my failures. In the process, I received a variety of comments about my pictures, and I also had the opportunity to engage with people who would never have visited an exhibition and receive unrestrained written accounts of the feelings that the pictures inspired in them. Before I knew it, I was able to present the actual works in an exhibition. When these fragments, which I titled Ms. Piece, were arranged in chronological order, it was hard to believe that they were fragments at all or that they had even been made by the same person. In human growth, image recognition is the first method we use to remember things. This experiment, which I have continued since 2011, helped me understand what a tremendous influence images have in society and in an era marked by so much change in culture and civilization. Before I sleep each night, I send a picture out into the desolate landscape of the Net, which extends to places where art does not usually reach. Each of these, abandoning there like the dead, is proof of the living.


作品コメント

 

有隣荘は目を凝らすほど、みえぬものがある。耳をそばだてても、音を持たない建物である。なぜなのか?

この作品を制作するには、有隣荘で私が感じたものと向きあわなければならなかった。「精緻で調和のとれた空間であり、ざわめきのない空間」。それを現象に置き換えるための意識を働かせるために、撮影された画像の世界と、もう一つ、音の世界をつくることにした。

鏡の語源は、「影身」ともいう。本編に現れる鏡や水面は、影の身であり、それ自体に意味はない。むしろ悲しみ、哀しみともいうべきで、そのようなものからどのように、開かれたありのままの生に至ることができるかが、課題となる。喜怒哀楽の世は短いが、芸術という術をもっている人間の奥底には、個人史の部分を凌駕する、純粋な精神原理『プルシャ』の中で「戯れて遊ぶ」ことができるはずではないだろうか。まとまったストーリーの中よりも、断片の不条理な中にそれらは、込められている。

有隣荘は、人間の作ってきたもの、伝来してきたものたちの、世界の時間軸があり、その世界地図の中にいるようでもある。故郷をもたぬ、複数の人物が、今回はさまようというよりも、絶対的孤独の中で夢を見、時間軸が異なった世界で、統一されないものになる。作品を見ている私、あなたが形を与え、初めてみえるもの、聞くもの、嗅ぐものになる。そのような体験をすることができるよう、願ってつくったものである。

 

2014年 4月

 

およそ、映像を作るという作業は、選び切り取っっていく行動である。

失敗だと思っていたシーンの中の一部が、選ばれることもあれば、使われる予定で撮影したものも、ばっさりとなくなってゆく。撮影時間のすべてから、結局残るのは、ほんの少しである。

フィルム撮影の写真も、同じように36枚取りフィルム一本のうちから、1カットよいものが出ることは、稀だった。

 

まず、フレームに何が映っているか。

それを見ようと私たちはやっきになる。しかし、フレームの外に残されたもの、残ってしまっているもの、それらを想起させることができればと試みる。

残されたものに意味はあるのだと、私は考えている。

 

作品本体に、意味はない。

意味をあたえ、形づくるものは、物質つまり肉体の感覚器官である。

と、書けば、作品の責任を鑑者に全てゆだねているように聞こえるかもしれない。

しかし、そうではない。

 

意味や理由などなく、遺棄されたものたちは、現されるためにいつも待機している状態にある。

それが、意味が生成するために必要不可欠な「静止」なのであろう。

 

 

2014年 プルシャ制作メモ

 

松井智恵

 映像作品は、光のもとで撮影され、再び光の状態になって再現される。

 記録・記憶といったものが、多分に多く含まれた作品を創る事を続けていますが、インスタレーションであれ、ドローイングであれ、どのような技法の場合でも、作品として最終的には、『時間が静止したもの』として、展示してきました。

なぜ、『静止』という捉え方がでてきたのかと、言いますと、ある日歩こうとして気が付いたのです。

 歩く前に私は静止しています。この『静止』はとても不完全なもので、絶えず揺れる手前にありました。

 

 インスタレーションの中で歩き回り、ドローイングの画面の上で視線は、動き回り、また、画像そのものの動きに眼球は翻弄されます。このことと、『時間が静止したもの』とは、まるで正反対のことを語っているように思われるかもしれません。しかし、動いているものへの視線や、視線を動かすこと、動きとともに視線もあることは、永久に続くことはあり得ないと、わたしは考えます。

 止むことのない「まばたき」の連続。動的な印象を持つ「まばたき」は、実は、時間を静止するための機能です。まばたきの結果、見えたものは、記憶の中でいったん、『静止』の状態になります。そうやって、わたしは、数えきれない『静止』した記憶を蓄積しているのです。

 

『夢』自体が、記憶の中に含まれているように。作品は、眠り、朝に起きるように、私の中に存在します。

「記憶の中で、風景だったものが、ある日、光景に変わること」

「記憶の中で、光景だったものが、ある日、風景に変わること」私の映像作品は、この両方の間を行き来する、構成になります。

人の原初的な日常の動作に、今回は重点をおいて、制作しました。ある日に展示会場で、撮影された映像が、寓意を持ったものに、変化することをとおして、「ある日」の、人(ハイジ)の、喜怒哀楽を静かに描きます。