critical essays
トレース・エレメンツ――日豪の写真メディアにおける精神と記憶
カタログ論考「現代の微量元素」(執筆者:飯田志保子)より部分抜粋(pp.15-17 日本語頁)
共同企画:
ベック・ディーン(パフォーマンス・スペース アソシエイト・ディレクター)
飯田志保子(東京オペラシティアートギャラリー キュレーター)
*肩書はいずれも執筆当時。
カタログ発行:2008年7月19日
発行:財団法人東京オペラシティ文化財団
ISBN 978-4-925204-22-4 C0070
(以下、抜粋部分)
松井智惠は80年代から一貫して、視覚の優位に基づく前近代的な二項対立型の思考原理を突き崩し、身体性を重視した実践を重ねてきた作家である。80年代には視覚だけでなく触覚を刺激する素材を頻繁に用い、90年代には空間内に階段や通路を仮設し、観客の具体的な身体経験を要請するサイト・スペシフィックなインスタレーションを行ってきた。*12 松井の実践は、断片的な要素に分裂し続ける意味や関係性を、全体性のうちに再統合することである。*13 そしてインスタ―レション《彼女は溶ける》(1999年)の空間内で自身の反復動作を撮影した映像作品《she dissolves》(2000年)以降、パフォーマンスと映像に連続性をもたせることによって、彼女の作品は反復性と偏在性をより強く感じさせるものになってきた。
松井はパフォーマンスと映像の関係について、次のように述べている。「パフォーマンスは時間を止められず、映像は断片的なシーンを撮ってイメージのしりとりのようにして作っていくが、どちらもシーンとシーンの間、つまり時間のつなぎ目を考えていくという点では同じ。」*14 この「しりとり式」は、ジョイントを残すことである。切り替えれば別の映像が出来上がる可能性をもたせたまま、一つの可能性を選び取る行為である。
[…中略…]
彼女の身体はそこにあり
そこにない
彼女の視線はそこになく
そこにある
彼女の視線は一点に集中し
欲望へとかわる記憶を
溶かす
彼女は忘れ去ることさえ溶かし
溶ける
――松井智惠『彼女は溶ける』1999年より *15
ここで「彼女」の身体は偏在的である。肯定と否定、主体と客体の二項対立を転倒し、どこかに/何かに溶解して文章は終わる。だが完結ではない。なぜなら「彼女」のイメージは再び床下から梯子を上って床上に現れるからだ。ヴィデオは反復可能なメディアである。画像が目前になくとも、イメージは私たちの記憶のなかで反復し、「彼女」はどこにでも出現する。
「(イメージは)記憶のレイヤーの一つとして残ればいい。[…中略…]モノはなくなっても消えたわけではなく、記憶の中にそのものとしてストックされている。実体はないけれどそこにあり続ける。」と松井は言う。*16 私たちはまさしくそのことを、《she dissolves》における「遅延されたイメージの反復」として経験するだろう。地底にある見えない地下水脈として偏在する時間は、「彼女」を別の次元にジョイントし、反復させる。
もう一つの出品作である《HEIDI 46-1 “brick house”》の撮影が行われた大阪の築港赤煉瓦倉庫は、大正12年(1923年)に建てられ、戦後コンテナ船が主流となって1999年に倉庫としての役割を終えるまで、国内外を結ぶ貨客船への貨物の積み卸ろしが行われる物流拠点として栄えた歴史を持つ。その後2006年まで現代美術やサウンドアートの展示に使われ、松井もその運営に関わっていた。*17 偶然にもシドニー展の会場となる現在のパフォーマンス・スペースが位置する赤煉瓦倉庫の複合文化施設キャリアジュ・ワークスと重なる歴史と外観である。その大阪港の赤煉瓦倉庫での文化事業が終止符を打った2006年から開始した「ハイジ」のシリーズは、松井がヨハンナ・シュピーリ原作の『ハイジ』から、自分と同じ年齢になったハイジとその物語の風景を読み取り、自身の内面世界と重ねながら映像化した作品で、作品の枝番号には彼女自身の実年齢が付けられている。港や倉庫は、大勢の人とモノが行き来したアノニマスで集団的な記憶と時間を集積した場である。シリーズのなかでも特に《brick house》は、「そこにあり続けた」と仮定されたハイジ=松井という器を通して、倉庫にストックされた記憶と時間を一時映像に留め置き、再び流し出す、中継地点としての性格が強い作品である。倉庫の重い扉を開くラストシーンは時間の循環を予感させ、きわめて象徴的である。
「器」という考え方は、人の無意識の境界線上にまたがるさまざまな感情の闇を受け止める。ジェーン・バートンが演じる被写体の女性像、そして圏外にある時間を受信するメディウムであろうとする志賀にも通じる。
反復性とは、写真を見るたびに過去の記憶を呼び覚ますことと同義ではない。記憶が印画紙やモニターに回帰、再来するのではなく、イメージは常にそこにあって、私たちがイメージの側に連れて行かれることだ。アーティストは、写真メディアによってかき回された時間の隙間を探り当て、偏在する「そこにあった」イメージを自ら捉えに行く。「彼女」は偏在し、代入可能な存在である。松井が演じる「彼女」はハイジであり、古屋にとってのクリスティーネでもある。
(以下略)
12. 中村敬二「松井智惠とインスタレーション」、中村敬二・松井智惠『一度もデートをしなかった』、松井智惠/ロバフィルム舎、2005年、pp.68-81参照。
13. 松井智惠「エッセイ――作品とともに」、前掲書、pp.68-70参照。
14. 松井智惠「ゆっくり生きる。」展アーティスト・トーク(芦屋市立美術博物館、2008年1月19日)でのコメントより。
15. 松井智惠「彼女は溶ける」、前掲書、pp.46-47。
16. 松井、前掲「ゆっくり生きる。」展トークでのコメントより。
17. 松井との会話とMEMから提供の資料より。
松井智惠へのインタヴュー
あなたの初期の作品は、匿名の場をインスタレーションによって特殊な場(スペシフィック・サイト)に変容させていました。しかし映像作品を始めてからの仕事は逆に、場をアノニマスで遍在的なものにしているように思います。あなたにとって「スペシフィックな場」とは何でしょうか?映像のなかで、ご自身でパフォーマンスをすることはその変化に影響していますか?また、物語を映像によって再構築することと、インスタレーションとして仮設の場を作ることの間には、どのような関係があると思いますか?
「スペシフィックな場」については、少し乱暴な言い方になりますが、どのような場であっても「そこに何が、あるいは誰が、どのような状態で在るか」がスペシフィックな場を生じさせていると考えています。それは「人にとって空間とは何か」という問いかけを、物理的なインスタレーションを制作している間に、作品にもたらすようになったからです。結果として、私のインスタレーションの作品は「問い」であることは確かです。
空間を成り立たせている無数の要素。例えば、質感や湿度、大きさや光などという要素を得た人間の共通認識の底にある、原初的な感覚に私の関心は移っていきます。そこで、神話、寓話、物語に顕著に現れている、簡略化されたできごとや場所を探るようになりました。そして具体的な要素を用いて、1993年頃の作品から寓意を含んだインスタレーションへと変化し始めました。
映像作品を作り始めたのは、実際には2000年からです。ただ、初期のインスタレーションから時々、写真を要素として使っていました。身体の一部分の写真や、自分の記憶にない古いスライドからのプリントです。この使い方では、写真自体はアノニマスな状態です。
インスタレーションは、「記憶の共有」を強調するための装置とも言えるでしょう。共有できない記憶は、個々人のなかで居場所を失い、宙づりになったままとは言えないでしょうか?しかし、共有された記憶も、朧さと鮮烈さの両面を持ち合わせています。誰もが既に物語を持っている状態で、何を表現すれば良いのか?大げさですが、簡単ではありません。美術家としてではなく、一人の人間としてこの空間と記憶に関わることを決めた時に、映像としてのインスタレーションを作ることになっていきました。人間の持つ原風景を表したいと、心の中で希求していたことに気づいたのです。もちろん、自分がその場所で何かをすることに躊躇もします。しかし何を作るときでも、前へ進んだり後ろに下がったりと、「記憶」と「空間」の囚われ人になるのは仕方のないことです。そうやってインスタレーションは、風景でもなく光景でもない状態を作ります。質問のように、初期のインスタレーションと現在の映像作品とでは「場」の在りようのベクトルが反対ですが、たどればどこかにつなぎ目があります。インスタレーションのなかを歩き回り、映像作品のなかで座る。どちらも「寓意の入れもの」の働きを持っています。そのような関係が両者にはできています。
こうした経緯を経て、現在の作品は物語をなぞるものではなく、「想像」を喚起するものは何かという問いかけと、風景と光景の間を表現することがテーマとなっています。
[聞き手:飯田志保子]
「ゆっくり生きる」What is the Real Nature of Being (2008年1月12日~2月24日)
カタログより、抜粋
現代の『ハイジ』
1980年代よりインスタレーションの代表的作家として早くから評価されてきた松井智惠は、2000年以降主に映像を表現媒体にしている。しかしそれは、すでに中村敬治が的確に指摘しているとおり、近年溢れている映像作品とは一線を画すものであり、それまでのインスタレーション作品における思索の帰結として、その展開として立ち現れたものである。中でも《ハイジ44》(2004年)は、インスタレーションでの問題意識を総括しつつ、映像の特質を新たに融合させ、その後の映像の性格を方向づけた意味で重要な代表作と呼べるだろう。
本作品は、そのタイトルからも窺えるようにヨハンナ・シュピリ原作の『ハイジ』を元にしており、原作のハイジが44歳――制作当時の松井の年齢――になったとしたら、どのような寓意を生むかという問いから生まれたという(1)。その映像は、がらんとした倉庫を上から俯瞰する場面より始まる。倉庫の暗闇に、松井が扮する夢遊病の「ハイジ」が横たわる。周囲には親子の鹿の剥製、おもちゃの楽器がひっそりと離れて置かれ、それらは時折明滅する光によっておぼろげに浮かび上がる。その後場面は一転し、幾重にも重ね着をして大きなリュックを背負いながらもう一つ別のかばんを引きずって歩く「ハイジ」が映し出される。彼女は駅の改札を出て、倉庫までの道のりを歩いて行くが、道中、身につけていたものを一つずつ路上に打ち捨てながら最後は白い寝間着の状態で倉庫へたどり着く。しばしおもちゃの楽器を無作為に鳴らした後、梯子を上って天井に張り巡らされた梁の間を行きつ戻りつしながらゆるゆると歩き、座り、寝転びながら一巡りして、最後には梯子を下りて倉庫を出て行く。場面は変わって、かばんを引きずって倉庫の外を歩く「ハイジ」。途中で最初の厚着の状態に突如変化し、再び倉庫へ入って行く。映像の最初と最後には、松井自身が創作した、ハイジとある人物との間で交わされる会話が、作家自らの朗読により架空の言語で流れる。
以上の概要からも明らかなように、また作者自身が明言しているように、《ハイジ44》は「物語のあらすじを映像化するのが、目的ではない」(2)。あるいはまた、『ハイジ』にまつわる作家の私的な感情の吐露を試みたものでもない。もちろん、最初厚着であったハイジが倉庫へ向かう過程で身軽になってゆく過程は原作を参照していると思われるし、白い寝間着であてどもなくあちこちを彷徨う姿は、明らかに夢遊病のハイジを下敷きにしている。ただ、そうした原作との細かな対応関係よりも重要なのは、何よりもまず、山に帰りたいあまり夢遊病になってしまった「ハイジ」という人物像を思い起こさせること、言い換えれば、山という自然の世界から、街という人工的な環境が支配する世界に突然入ることで大きな葛藤を体験した人間一般を想起させることであろう。
この作品に対して多くの人がまず感じるのは、映像全体の脈絡のなさではないか。鹿の剥製、楽器は何を意味しているのか、なぜ倉庫にあるのか、なぜハイジはわざわざ危険な梁の上を歩くのか、そもそもハイジが倉庫をめざす理由は何かなど、目を凝らして見れば見るほど、しかも同時に流れる言葉と関連づけて解釈しようとすればするほど、明快な意味づけから離れて行き、つかみ所のない混沌とした感覚が増幅される。だがそれこそが逆説的にも、一貫した文脈の生成や体系化を拒む作家の精神の有り様を浮彫りにしており、この特質自体は映像作品に移る前から松井の作品に顕著であった。 松井の2000年以前のインスタレーション作品は、質感の異なる様々な素材のオブジェが空間の各所に配され、またそれぞれが微妙なつながりを暗示するため、鑑賞者は実際にあちらこちらを歩き回りながら、意味の断片を試行錯誤でつなぎ合わせ、手探りで全体像をつかみ取る必要があった。それは、視覚だけでなく、身体の全感覚が関わることを見る者に要請する作品であった。それゆえにかつて中村は、日本では松井のみが真の意味でインスタレーションを自己の表現方法としている作家だと評し、インスタレーションの特性として次の点を挙げる。「インスタレーションは、主体と客体、形式と内容、そして美術と生活という、これまで絶対とされてきた区別の外側に美術を位置付けることを可能にする。インスタレーションは、非近代的あるいは超近代的な、超西欧的な態度のための方法であるともいえよう」(3)。
つまり松井のインスタレーション作品で試みられてきたのは、近代における分析、還元、体系化の追求によって不可避的に失われてきた、様々な要素の複雑な関係性とその錯綜する全体性の感覚を回復することではなかったか。幾多のオブジェを併置し、ときには文字も加えることで、作品の意味をあえて曖昧にし、渾然とした世界へと見る者を誘い入れ、しかも身体すべてでそれを感じ取ることを目指した装置としての作品。松井自身がすでに1993年に作品の意図について次のように語っている。「神話や宗教や寓話といったものは、かつては非常に強力な体系を各々つくりあげ、空間そのものに、象徴によって強靭に関係づけられた全体性を与えていたと思います。それは、世界そのものが分化されることを執拗に拒む作用とも言い換えられるでしょう。……いったん分裂を始めてしまい、分裂し続けるあらゆる囲い込み。神話や宗教や寓話が現在の人間の世界像の中にちりばめられてしまったそれらの状態を、たった今もちりばめられ続けている運動をも含めてひと粒ずつを振動させ、世界像の体系を織りなす『系』そのものを振動によって生成される動きのあるものへと変換することは不可能なことでしょうか。その変換によって、全体性といったものを、もともと分裂不可能なものに逆転することが可能な装置としての芸術を提示する。それがわたしの作品を支えている考えです」(4)。
映像では、鑑賞者自らが空間内を移動することは求められないものの、落下のおそれがありながら無防備きわまりない恰好でよろめきつつ歩き回るという「ハイジ」の危機に瀕した状況が、見る人自身の切迫感を否が応でも沸き立たせ、身体のこわばりすら引き起こす。この生身の身体への働きかけが、松井の映像とインスタレーション作品とを強固につなぐと同時に、もっぱら視覚に訴える多くの絵画的な映像作品と松井作品とを分かつ特質になっている。さらに映像においては、以前のインスタレーションでは潜伏していた時間的要素の顕在化や音声の導入によって、より複雑で重層的な世界像の中に見る者を引き込み、その世界を「見る」のではなく、まさに「生きる」ことを求める。他でもないそれが、分析し秩序だった体系を求めるあまり実感し難くなってしまった世界というものの根源的な姿ではないか。それゆえに《ハイジ44》を初めとする一連の映像作品は、アルプスに住む少女ハイジを寓意化するのではなく、『ハイジ』という物語の枠組そのものを寓意化することで、今を生きる私たちに現実世界本来の有様を再認識させ、その世界とのつながりを体験させてくれる「寓意の入れもの」になる。それはまた、かつて90年代に松井が語っていた、個と個の意識の間を流れる「水路」としての作品の在り方、すなわち個の独自性という名の陥穽から抜け出すための装置でもある。
(1)中村敬治、松井智惠『一度もデートをしなかった』(ロバフィルム舎、2005年11月1日)付録DVD収録「COMENTARY」《HEIDI 44》
(2)前掲、p.15
(3)前掲、p.80(初出:Out of Place, Vancouver Art Gallery, 1993, p.111)
(4)前掲、pp.68-70(初出:Out of Place, Vancouver Art Gallery, 1993, p.101)
©加藤瑞穂(元芦屋市立美術博物館学芸員・現大阪大学博物館招聘准教授)
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Chie Matsui (1960-)
Chie Matsui first studied textile design in Kyoto City University of Arts and started her first installation using mixed media including silkscreen on various
fabric, wood and plaster in early 80s. In 1990 Matsui was invited to Aperto in the 44th Biennale di Venezia. Since then, her works have been presented in many overseas venues
including Site Santa Fe, Vancouver Art gallery, Louisiana Museum and The Museum of Modern Art, New York. Through the 1990’s she had been working on large-scale installations consisting of
minimal white walls, symbolic objects and drawings. In mid 90s, Matsui started “Labor” series that uses different kinds of materials such as fake fur, mirrors and round saws surrounded by
red walls with cut out letters. Such cut out letters read, “She works”, “She testifies”, “She lacks” and so on. She also represented the characters and landscapes from famous stories
for children written by Grimm Brothers and Aesop in her drawings and objects. In the series Matsui questions contemporary issues such as the position of women as well as artists in Japan’s
society. In 2000 Matsui produced her first video work She dissolves. In the work, Matsui herself appears out of a square hall on the floor in her installation room and crosses the
room to go underground again through another hall. The course of action is repeated for about 30 minutes. Matsui produced various version of this type of video; each shows Matsui
herself repeating a simple course of action and behavior in gallery space, seashore of a small island and a spiral staircase in an old building. Her tortured body bearing hard work reminds
the viewers of penance by a pilgrim. In Heidi series Matsui refers to a famous fable by Johanna Spyri and casts herself on the heroin, Heidi, who is an orphan raised by her grandfather in
Alps. Through the series, Matsui challenges the internationally well-known moral character and creates her own visionary story. Her second Heidi series Heidi 45 was first presented in
Yokohama Triennale 2005 in hi-definition format. Heidi 45 starts with a cryptic dialogue between an old lady and a girl in imaginary language with subtitles. Matsui is also known for
her hallucinating drawings and paintings, which have been shown at the gallery from time to time. Her drawings are not plans or drafts for her video/installation, but more independently
created in association with her video/installation.Chie Matsui was born Osaka in a Buddhist temple family. She lives and works in Osaka, Japan.
©Mizuho Kato
松井智惠の映像作品について ― 夢と覚醒と ―
青山 勝
「なんと薄いのだ、この世界の窓は」(《HEIDI 53 "None"》)
松井智惠は、1980年代以来、彼女が「寓意の入れ物」と呼ぶインスタレーション作品を発表し、注目を浴びてきた美術家である。それは、「布やレンガ、あるいは砂、丸太、毛皮など触覚性の強い材料の使用によって、視覚だけではなく、身体的な感覚を喚起する作品であった」(1)。2000年に松井は映像制作を開始するが、以来それらの映像作品は、最新作の《HEIDI 54 "Purusha"》(2014年)にいたるまで、基本的にインスタレーションの一部として組み込まれ、そこで周囲のたたずまいとともに全身で受けとめられるべきものとして発表されてきた。それゆえ松井の映像作品は、一般的な意味で「映像作品」と呼ぶのが躊躇われる作品である(2)。
とはいえ、このことは、松井の映像作品がインスタレーションの「素材」にすぎず、そこから引き離したときには「作品」としての魅力をすっかり失ってしまう、ということを意味するものではない。むしろ逆である。それは「映像作品」として特異なものであるがゆえに他に類を見ない独自の力を湛えた「映像作品」となっているのだ。今回のMEMギャラリーでの上映会では、2004年以来10年にわたって継続的に制作されてきた〈HEIDI〉シリーズのうち最新作を含む8作品が上映される。これだけの映像作品がまとめて上映される機会はきわめて稀で貴重なものだ。映像作品に興味をもつ多くの人の目に触れることを期待したい。
〈HEIDI〉シリーズは、J・シュピーリの『ハイジ』を原作とする。だが、その「物語のあらすじを映像化する」ことを目的としたものではない。松井はこの原作を「勝手に」読み込み、そのなかのいくつかの要素を映像という「寓意の入れ物」に放り込んでいる。
《HEIDI 45》の冒頭には、滑稽なまでに重ね着をした女性――松井自身が演じる――が登場する。これはハイジの原作の冒頭にある描写と照応関係にあることは間違いない。しかし、この重ね着の姿は、それと対比的な女性、すなわち、〈HEIDI〉シリーズに繰り返し姿を現す白いワンピースの寝間着姿の女性――これも松井自身が演じる――のイメージを際立たせる存在として重要なのであり、その意味は『ハイジ』の原作の物語における表面的な意味とはさしあたり無関係である。〈HEIDI〉シリーズの第一作《HEIDI 44》で、幾重にも重ねられた衣服を脱ぎ捨て、白の寝間着姿になった裸足のハイジは、それ以来10年にわたって、あちこちをさすらい、さまよい続けてきた。その姿には、少なくとも原作に含まれる2つの、正反対ともいえる少女のイメージが重なり合いながら圧縮されているように私には思える。
一つは、〈大人〉が押しつけるさまざまな拘束から逃れ、〈自然〉のなかで自由になった無邪気な少女のイメージだ。5才のハイジは重ね着を脱ぎ捨て、裸足になってペーターと豊かな自然のなかで生き生きと戯れる。白の寝間着姿の女性も、裸足の無防備な姿で、周囲の空間を〈大人〉が思いもしないような意外な経路を通って縦横無尽にまさぐり尽くす。
もう一つは、あの痛切な夢遊病者のイメージである。アルプスの山に帰りたいという少女の思いは、昼間はその心の底に無理矢理押し込められるのだが、夜になると意識の底から溢れ出し、少女の身体を夜ごとベッドから抜け出させ、彼女の身体を危険にさらす。〈自然〉への憧憬が、まさに亡霊のような姿をとって現れてくるのだ。
これらの二つのイメージはまったく正反対のようでありながら、日常的な視覚の論理を逃れ、いわば無重力状態にある「夢」の論理とでもいうべきものである点ではよく似ているといえるかもしれない。その飛翔、高揚、逸脱、躍動、疾走は、夢から覚醒したときの、落下、沈滞、拘束、停止と裏腹である。松井のどの作品にも通奏低音として響き続けている情動が、どこか痛切な悲しみとでもいうべきものによって彩られているように感じられるのは、そのせいかもしれない。
夢から覚める夢を見るかのような多層的、重層的世界。さまざまな夢が合わせ鏡のようにお互いを反射しあう世界。その映像美に陶酔しつつも、私たちの意識は、ナルシシズム的な混濁とは無縁の透明な覚醒へと導かれていく。最新作のタイトルであるプルシャとは、「物質原理『プラクリティ』とは全く隔絶した純粋な精神原理」であり、「水面や鏡に映った映像を見る人にたとえることができる」と説明される(3)。「映像」という非物質的な存在もまた、鏡やガラス窓に似た存在である。それはさまざまな様態の世界を映し出してくれるが、それ自体はなんとも頼りなく、傷つきやすく、脆く、ほとんど目にとまらぬ「薄い」存在である。松井の「映像作品」は、映像の「薄さ」を隠したり、取り繕ったりすることなく露わに呈示しているという点で、凡百の「映像作品」とは次元の異なる考古学的な輝きを放っている。
松井の「映像作品」は、願望としての美しい「夢」を私たちに見せてくれるのではない。それはむしろ、私たちを「夢」から覚醒させる、美しくも残酷な「夢」なのである。
(1) 中村敬治「橫浜ポートサイド・ギャラリー企画案」(中村敬治・松井智惠『一度もデートをしなかった』ロバフィルム舎、2005年、pp. 12-13)。
(2) 上記の企画案のなかで中村敬治氏は、2000年前後の美術界における世界的な「映像作品」の隆盛を片目に見つつ、松井の作品を「ヴィデオ/パフォーマンス作品」と呼び、いわゆる「映像作品」と対峙させることで、そのポテンシャルを明確に際立たせた。
(3) 松井智惠「作品について」、平成26年春の有隣荘特別公開「松井智惠 プルシャ」展カタログ(公益財団法人 大原美術館)に掲載予定。
©青山勝 (大阪芸術大学芸術学部教授)
On Chie Matsui’s Video Art —Dreams and Awakenings—
Masaru Aoyama
“How thin are the windows of this world”
(HEIDI 53 “None” )
Starting with her installation titled “Allegorical Vessels,” Chie Matsui has steadily been gaining
recognition for her work since the 1980s. “The tactility of the materials she used--cloth, bricks,
sand, logs and furs--involved the senses and engaged visitors in a corporeal experience.” 1
Although she began delving into the video in 2000, the works she produced between then and
her most recent HEIDI 54 “Purusha” (2014) have generally been conceived as parts of a larger
whole in an immersive installation. For this reason, one hesitates in categorizing Matsui simply
as a video artist.2
Despite this fact, Matsui’ s videos are far from mere material components of her installations;
isolating them from the installations does not render them lackluster or incomplete as artwork.
In fact, it often seems the opposite is true. Idiosyncrasies of the piece unravel in new directions
and realign themselves in shifted focus within their altered contexts. In this exhibition at
MEM, 8 works from the HEIDI series will be shown together. Including her latest piece, they
represent a project begun in 2004 and developed over the course of 10 years. It is an extremely
rare and valuable opportunity to be able to experience such a comprehensive collection of
Matsui’s videos and surely a notable occasion for all those invested in the medium.
The HEIDI series is based on J. Spyri ’ s novel of the same title, but not with the aim of
videographically reenacting its narrative. Matsui’ s method instead involves liberally selecting
elements from the original and throwing them into the “allegorical vessel” of video.
At the beginning of HEIDI 45, a woman (played by Matsui herself) appears bundled in heavily
layered clothing. This woman undoubtedly stands in an anaphoric relationship to the over-clad
character who is portrayed in the beginning sections of the original text, and in contrast
against the woman, also played by Matsui, who appears and reappears throughout the same
HEIDI series wearing a white sleeping gown. She, however, is not a surface-level narrative
reenactment of the cloaked girl who plods across the landscape in Spyri’ s introduction. The
Heidi who first shed her manifold layers for the white gown in HEIDI 44 (the start of the
series) has since roamed here and there, barefoot, during the past 10 years. Within her figure, I
see a compression and overlapping of these two oppositional visions of the girl put forth in the
original story.
The first of these images is of a girl who has fled from constraints pressed upon her by the
adults of society to find liberation and innocence in nature. The 5-year-old Heidi discards her
heavily layered clothing and frolics with her friend Peter in the vast and bountiful country.
Similarly free meanderings are also acted out by the woman in the white night gown. She, too,
is barefoot and vulnerable, roaming and feeling her way through surrounding spaces in paths
whose unconventionality bewilder the adult minds around her.
The other is that poignant image of the somnambulist. The girl who yearns to return to the
Alps contains her impulses during the day, but they flow out from the bottom of her uncapped
consciousness at night, risking harm to the girl’s body by pulling it out of the safety of her bed.
It is as if her longing for the mountains were manifesting itself as a ghost-like presence.
These images of the young girl are nearly opposites of one another, but the two share an
incompatibility with the perception-based order of daily life and may instead belong to the
zero-gravity realm of dream-logic. Their elating dynamism, deviation, and unfettered motion
lie on the other side of the stagnation and confinement that trail the fall-like awakening from
dreams. This may be why one senses a profound sadness or wistfulness that continuously
reverberates in the depths through all of Matsui’s works.
The manifold, multi-leveled universe that unravels here provides an experience similar to
dreaming of waking from a dream. It is a universe where dreams reflect one another endlessly,
like images caught and bounced between coupled mirrors. Yet while the beauty of these scenes
may first threaten to intoxicate us, our consciousness is guided not toward the clouded
confusion of solipsism but closer instead to a clearer state of awakening. “Purusha,” the title of
Matsui’ s latest piece, indicates a spiritual-mental ontology that distinguishes itself from its
“Prakrti” counterpart of material phenomena. The former is frequently iterated with the
analogy of “a person looking at reflections in a pool of water or mirror.” 3 Video images,
characterized by the same immateriality, are closely related to these mirrors and glass
windows. Although they may reveal to us the diverse states of our world, they are themselves
fragile, contingent on external objects, “thin,” and near-transparent as an immanent presence.
Paradoxically, Matsui is able to endow her work with the brilliance, frankness, and
authenticity of archeological artifacts by fully acknowledging this “thinness” of video. She
makes no attempt at concealment or compensation.
What Matsui’s art allows us to see is not the stuff of dreams in the sense of enthralling desires.
It is in fact these alluring visions from which her work beautifully yet cruelly awakens us.
(1) Keiji Nakamura “Yokohama Portside Gallery Exhibition Statement” ( ‘We Never Went Out on a Date,’ Keiji Nakamura
and Chie Matsui, Robafilm Publishing, 2005, pp.12-13).
(2) In the statement cited above, Keiji Nakamura highlighted the new alternative possibilities offered by Matsui’ s work,
calling it a kind of “video-performance art” and positioning it in confrontation against the practice of working in the
more widely explored terrain of “video art” that was collecting momentum in the art world around the turn of the 21st
century.
(3) Chie Matsui, “On the work,” Catalogue for the Yurinsou Special Exhibition of Spring 2014 (Chie Matsui: Purusha),
Ohara Museum of Art.
©Masaru Aoyama